2019年1月14日月曜日
石川啄木 / 自虐のつぶやき
久々に本を買いました。
新潮文庫の『一握の砂・悲しき玩具』です。
啄木の歌は
私の父が好きで
いくつもの歌を諳(そら)んじていて
小さい時より
父の口からよく聞かせられて
私もいくつかの歌を
自然と覚えていました。
鬱屈していた20代の頃には
文学や哲学に傾倒していましたが
当時、同世代にあたる啄木の歌は
お恥ずかしい話ですが
時折感涙に咽(むせ)びながら
読んだりしていました。
当時好んで読んでいたのは、
「いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと握れば
指のあひだより落つ」
「たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず」
「ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく」
「ふるさとの
かの路傍(みちばた)のすて石よ
今年も草に埋もれしらむ」
などといった
割と有名で
ロマンチシズムな作風の歌ばかりでした。
さて
今再び読んで見ると
眼に入って来るのは
「愛犬の耳斬りてみぬ
あはれこれも
物に倦(う)みたる心にかあらむ」
「怒る時
かならずひとつ鉢(はち)を割り
九百九十九割りて死なまし」
「我に似し友の二人よ
一人は死に
一人は牢(ろう)を出でて今病む」
「わが抱く思想はすべて
金なきに因するごとし
秋の風吹く」
「人ありて電車の中に唾を吐く
それにも
心いたまむとしき」
といった
厭世(えんせい)的
かつ自虐的な歌ばかりです。
こんな人
絶対に
近づきたくないですよね(笑)
若い頃は
啄木に自分を投影し、
「悲しみに耐え忍ぶ清貧の歌人でいて欲しい」
という願望が強く
勝手な”啄木像”を作り上げていました。
ダメ人間的な歌は
目に入ってはいたけど
自分に都合よく
排除していたのだと思います。
そして
それなりに人生経験を経た今
多様な事象を
ある程度は受け入れられる様になり、
よく言えば
度量が広がったと言えるし
違う言い方をすれば
自分の中の闇について
よく分かって来たので
共感出来るようになったとも言えるでしょう(^^;
偉大な芸術作品は
同じ作品でも
自分がそれに触れる年代によって
それぞれ違った顔を見せます。
啄木が歌集を出した当時は
当然SNSなどありませんが、
彼の歌は
5-7-5-7-7の形をとった
つぶやきの様な気がします。
現代ならば
ツイッターでの
人気アカウントになったのではないでしょうか?
状況が異なる
その時その時の
素直な気持ちをつぶやいているので
歌によっては
「この前言ってたことと全然真逆じゃん!」
なんてことが起こり得るのでしょう。
歌の中で
これだけ徹底して
自分の感情を客観的に描いていると
啄木の立ち居振る舞いが
段々とコメディの様に
おかしく思えてくるのが
不思議です。
「わがために
なやめる魂(たま)をしづめよと
讃美歌うたふ人ありしかな」
「かなしきは
喉のかわきをこらへつつ
夜寒の夜具にちぢこまる時」
普段散々悪態をついている
啄木だからこそ
この窮地に
失笑を禁じ得ません。
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